サントミューゼ(上田市交流文化芸術センター・上田市立美術館) おかげさまでサントミューゼは10周年

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【レポート】白い犬とワルツを

みる・きく
会場
サントミューゼ

『白い犬とワルツを』

 

『りゅーとぴあ発・物語の女たちシリーズ』の第11弾として、新潟を皮切りに全7都市を巡る全国公演『白い犬とワルツを』。

草笛光子さんがテリー・ケイ原作の“大人の童話”を朗読する、90分の大人な演劇作品である。

 

長年連れ添った妻・コウラに先立たれた老人サム。

圧倒的な孤独に包まれながら生きるサムの元に、突如として現れた白い犬。サムと、彼にしか見えない白い犬、ふたりの暮らしが始まる。

『白い犬とワルツを』は、死で始まり、死で終わる物語である。

誰にでも必ず訪れる「死」を、劇的な仕掛けや、悲劇的な言葉で描くことなく、ただただ平穏に、静寂的に、サムの静かな暮らしの中の或る出来事として、淡々と描写する。

 

「死」と並行的に描かれるのが、タイトルにもなっている「白い犬」である。

サム以外の人には見えないこの白い犬が何なのか、劇中で明瞭に描かれることはない。

白い犬は一体何者なのか。

その解を明示するような“野暮な劇”ではない。上面を汲み取れば文字通り「白い犬」である。

 

 

 

しかしそれはコウラの分身のようにも受け取れる。

もっと概念的な、例えば「生」に対する比喩とも解釈出来る。もしくは、孤独を受け入れたサムの、生き抜く決意の具現とも読み取れる。

「結婚生活57年、幸せだった」とサムが呟いた、

彼の生き様の権化かもしれない。

サムにしか見えなかった白い犬が、徐々に息子や娘たちにも見えるようになる描写から、母の死を受け入れ、母性を懐かしむ彼らの胸の内を表現したのかもしれない。

兎に角、白い犬の存在は、言うならば「白い犬の形をした何か」であり、その「何か」は受け手によって実にさまざまな解釈ができる。

その豊かな余白、すべてを描き切らない余裕こそが、大人の童話というトーンを作品に纏わすひとつでもある。

 

迫り来る病い。筆舌に尽くし難い孤独。歩みを止めない老い。

自身の活力が衰退していく現実と、妻に先立たれた寂寥や孤独を受け入れたであろうサム。

その眼前に登場した白い犬を引き連れて、サムはコウラとともに出席する予定だった同窓会へ参加するため、朽ちたトラックでマディソンを目指す。

サムが暮らす街からは1日がかりの長旅である。

その旅の描写が、最期まで生き尽くすための、サム自身の人生の整理、身支度のようにも映り、彼自身が歩んできた人生の暗喩のようにも見えてくる。

物語の最後では、さまざな想いを巡らせながら、サムは病に冒され、この世を去る。

“人は生まれて、そして死ぬ”という、人間の至極シンプルな人生の一本線と、その過程で出会い、起こる多様な起伏を90分という枠の中で丁寧に描いた作品である。

草笛光子の芳醇な語り口や声質が、きめ細やかな舞台照明と音響効果によって、時に力強く、時に物悲しく、荒涼としたアメリカの片田舎を想起させ、妻に先立たれた孤独な老人をリアルな存在として浮かび上がる。極力無駄を削いだ「街」の舞台美術。

そのミニマルな造形も、その一端を担っている。

 

 

「老人」「孤独」「死」。物語を構成するモチーフは必ずしも清涼ではない。

その人の終焉を強く抱かせ、悲観すら抱く。

世代によってはシリアスな、ごく近い将来に身の上に起こりうるドキュメントとして、僅かな苦痛と恐怖を抱いたかもしれない。

しかし白い犬とサムとの牧歌的な戯れや、過去にコウラと訪れたプロポーズの場所で見せるサムの純愛、そして何より、きちんと丁寧に人生を生き尽くすサムの姿勢と、彼を支える息子や娘の存在が、ペシミスチックになりがちなストーリーラインを、きっちりドラマチックに、そしてロマンチックに描き切っている。

鳴り止まぬカーテンコールが、この物語に漂う清々しさを如実に表しているだろう。