サントミューゼ(上田市交流文化芸術センター・上田市立美術館) おかげさまでサントミューゼは10周年

JA

【レポート】アナリーゼ(楽曲解析)ワークショップ Vol.61 長谷川陽子さん

体験する
会場
サントミューゼ

長谷川陽子 チェロ・リサイタル関連プログラム

アナリーゼ(楽曲解析)ワークショップ Vol.61

お話:長谷川陽子さん、松本 和将さん

11月30日(水) 19:00~ at サントミューゼ小ホール

 

2023年1月20日、サントミューゼでリサイタルを行う長谷川陽子さん。日本を代表するチェロ奏者の一人であり、2022年にはデビュー35年を迎えました。NHK交響楽団やプラハ交響楽団など国内外の主要オーケストラと多数共演し、ソロ・リサイタルや室内楽奏者として多くのコンサートに出演しています。

 

この日はピアニストの松本和将さんと一緒に、1月のリサイタルで披露するベートーヴェンの「チェロ・ソナタ第3番」について解説するアナリーゼ・ワークショップを行いました。「サントミューゼは私にとって憧れのホール。ここでリサイタルを行えることがとても楽しみです」と笑顔で挨拶しました。

 

大作曲家として知られるベートーヴェンですが性格は不器用でせっかちだったそう。「部屋のピアノはほこりだらけ。けれど当時から音楽の才能でモテモテだったそうです!」と長谷川さん。バッハが神のために、モーツァルトが貴族のために音楽を作ったのに対し、ベートーヴェンは「市民のために作曲した初めての人」でした。

 

彼の音楽に大きく影響したのがピアノの発展です。作曲活動初期の主流は、古楽器「フォルテピアノ」。現代のグランドピアノの半分ほどの大きさで音域が狭く、音量も小さかったそう。

 

「ベートーヴェンのピアノソナタ第1番は難曲として知られますが、フォルテピアノで弾くと意外と弾きやすいのです。チェロ・ソナタの第1番も音数が多く、いかにチェロとかぶらず弾くかが難題ですが、フォルテピアノならちょうどいいバランスで演奏できます」(松本さん)

 

 

 

その後エラールというブランドのピアノが登場し、ベートーヴェンはそれに触発されるようにダイナミックな作品を生み出しました。ピアノが進化するのにつれて、彼の表現の幅や概念が広がっていったのです。

 

今回取り上げるチェロ・ソナタ第3番が書かれたのはベートーヴェンの創作人生における中期、38歳の頃でした。

 

「初期の作風との違いを聴いてください」と、まずはチェロ・ソナタ第1番の一節を演奏。春を思わせる軽やかな音楽です。「ちょっとハイドンの匂いがしますよね。罪がない感じというか」と長谷川さん。

 

 

続いて音源を聴かせてくれたのは中期の作品、ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」です。先ほどのチェロ・ソナタ第1番に比べて力強さが増した印象。「メッセージ性が強まり、ずいぶん変わりましたね」。

 

中期のピアノ作品として「ワルトシュタイン」や「熱情」も紹介。こちらも力強く、音の密度とメッセージ性が高まっています。

 

「ピアノ曲でオーケストラを超えるような作品を目指していたのではと思わせます。ピアノの音域の使い方が初期とまったく違いますね」(松本さん)

 

 

チェロ・ソナタ第3番のベートーヴェンによる直筆譜は第1楽章しか残っていません。当時は手書きの楽譜を元に、写譜屋が印刷用の版を起こした時代。この曲は1960年代に発見された写譜原稿を元に初版が発行されましたが、のちに研究が重ねられ、2004年に改訂版が発売されて大きな話題を呼びました。

 

話題の理由は、初版における直筆譜からの写し間違いがいくつも発見されたから。実際にベートーヴェンが書いた他の曲の楽譜をスクリーンで紹介してくれましたが、音階もリズムも判読が極めて難しい、いわゆる悪筆。悩んだ末に書き直した所も黒塗りで残しているため、この上なく読み取りにくいのです。

 

「こうした楽譜を見て起こすわけですから、おそらく間違いもあったはず。何が真実か分からないまま初版が発行されてしまったんですね」(長谷川さん)

 

初版と改訂版の楽譜を比較してみると、拍子が「2/2」から「4/4」に変わっている部分があります。実際に両方を演奏して比べてみると、チェロの弾き方で印象が変わりました。

 

ソナタ形式の楽曲では「第1テーマ」と、それがもう一度登場する「再現部」があります。まったく同じように演奏するという考え方もありますが、この曲は再現部にピアノパートが加わっているため「最初と違う物語性を作ったのではないでしょうか」と長谷川さん。実際に第1テーマと再現部を聴き比べるとまったく違う印象。特に再現部のふくよかな表現が心に残りました。

 

 

さらに「当時の写譜屋さんが忖度したのでは?」というユニークなエピソードも。ピアノの一節をチェロが追いかける部分で本来は“♯(シャープ)”の音が、初版の楽譜ではピアノと同じ“♮(ナチュラル)”の音に。そのまま何十年も演奏されていたのです。

 

「写譜屋さんは『同じことを弾いているのに違う音が書いてある。きっと間違いだろう』と忖度してしまったんですね」(長谷川さん)

 

実際に弾き比べてみるとどちらも曲としては成り立ちますが、正しく演奏された方がよりドラマチックで心が高まる印象です。「続く第2テーマに一筋の光が差してくるよう。♯(シャープ)の音たった一つですが、腑に落ちて弾くことができます」と、長谷川さんは話します。

 

2004年の改訂版で長谷川さんが「1番ショッキングだった」というのが、第2楽章のある部分。初版の楽譜では強弱記号が「p(ピアノ)→ff(フォルテッシモ)」だった箇所が、頭から「ff」になったのです。弾き比べてみると、より自然に気持ちが高まる感覚。「これが発見された時、嬉しかったですよね」と長谷川さん。松本さんも「すごく気持ちよかったです」と答えます。

 

「研究によって、楽曲が少しずつ本来の形に近づいていく。現代はパソコンで作曲できますが、当時は手書き。しかも悪筆のベートーヴェンの楽譜から見つけた真実は、研究者の方々の努力の賜物ですね」(長谷川さん)

 

最後に第1楽章を通して演奏してくれました。

 

 

心が解き放たれるような多彩な音色を、歌うように響かせます。ベートーヴェンが描いた世界へとより近づいたこの音楽を、リサイタルで聴くのが楽しみです。