【レポート】ロマン派症候群
- 会場
- サントミューゼ
2016年1月10日(日)・11日(月・祝)
ショパンとブラームスロマン派症候群
■70分で描く、ふたりのロマン派が取り憑かれた“ロマン”
大きな物干し台、扉、窓、花、そしてピアノ。病院の待合室であろうその場所に、寝巻き姿の男と女が思い煩うような面持ちで車いすに乗って現れ、ぽつりぽつりと心情を語り始める―。
サントミューゼで上演されたリーディング劇『ロマン派症候群』は、音楽と演劇をブリッジさせたリーディング劇という枠を軽々と超越し、我々が思い描く“音楽と演劇のコラボ作品”という、今となっては俗っぽさすら纏う言葉から抱く印象を見事に裏切った、音楽と演劇の美しい連立が舞台上に広がっていた。兎にも角にも、ショパンとブラームスの物語に物干し台のセット(しかも洗濯物が風で靡いている!)はなかなか刺激的である。
フレデリック・ショパンとヨハネス・ブラームス。生きた時代も場所も異なる2人の偉大なロマン派音楽家の、出会いから別れまでを描いた本作品。演出家・内藤裕敬の繊細さと力強さが綯い交ぜになった台詞によって紡ぐ、ショパンとブラームスが出会って会話をしたら……という奇想天外なストーリーは、謂わば“ロマン派もしもシリーズ”。その創意工夫に満ち満ちた物語を土台に、ショパンとブラームスが抱える内面のゆらぎや感情の起伏を、ピアニスト・仲道郁代、仙台フィルハーモニー管弦楽団のヴァイオリニスト・小川有紀子、チェリスト・吉岡知広の生演奏で表現する構成である。どちらが主でどちらが従という関係では終わらない、音楽と演劇の平等な接続が本作品最大の特徴であり、物語を軽やかに推進させる偉大なギミックでもある。
■“委ねられる”という余白の心地良さ
出演は松永玲子(ナイロン100℃)と坂口修一。のんびりと、伸びやかに、諦めや達観すら滲む松永演じる患者Aと、焦りやどん詰まりを端々から見て取れる坂口の患者B。
どちらがショパンで、どちらがブラームスかというアナウンスはない。
本篇の中で呼びかけることもなく、語られることもない。
首尾一貫、どちらが誰なのかを言うことなく、劇は終わる。
この余白が気持ち良い。「どうも、ショパンです」「ところでブラームスさん」という名乗りの台詞がないことが何だか嬉しくなる作品である。結局我々が委ねられたわけだ。
そして劇が進むにつれ、(前向きな意味で)もうどっちがどっちでもいい気がしてくる。
彼らは明らかにロマン派であり、悩み、苦しみ、諦め、奮い立っている。感性が波打っている。
明示されない心地良さ、委ねる/委ねられる気持ち良さは明らかに芸術との戯れである。その戯れを味わいながら、ふたりの偉大な音楽家の“あってはいけない”出会いを堪能した70分であった。
事前の取材で本作品について語ってもらう機会があった。その時に内藤がふと口にした「台詞が跳ねる劇」という言葉、そして仲道が言った「音が転がる様子が見える」という言い回し。ふたりのアーティストが至極自然に語った通り、台詞が跳ね、音が転がる“現象”の一端を感じたような気がした。
作品の終盤、窓辺に飾られた造花に、雨が降り注ぐシーンがある。
変化することのない造花に、雨という連続的な変化を浴びせる。それが何を暗喩したものなのかはわからない。
ロマンかもしれないし、ショパンとブラームスの関係性なのかもしれない。
仲道の華麗なピアノの旋律が残響として耳に残る心地良さを噛み締めながら、
ぼんやりと「最後の最後まで委ねられているのだな」と少し楽しい気持ちになった。
そして気が付けば幕が降り、会場は万雷の拍手に包まれていた。
不可思議な芸術に触れた時の痺れが、確実にこの劇にはあった。