山本鼎(やまもと かなえ)
1882(明治15)年、愛知県岡崎市に生まれた山本鼎は、5歳で母とともに上京。10代のほとんどを木版工房での仕事に過ごした。年季奉公が明けると東京美術学校へ入学し、黒田清輝らに洋画を学ぶ一方、1904(明治37)年夏、現代の版画芸術の嚆矢となった木版画《漁夫》を発表。一躍、創作版画家として注目を集めるようになった。30歳になる1912(明治45)年、鼎はフランス留学に旅立ち、パリを中心に見聞を広める中で秀作を生み出す。油彩《自画像》や木版画《モスクワ》のほか、ブルターニュ地方の女性に取材した木版画《ブルトンヌ》は、鼎の創作版画の代表作として名高い。
帰国後の鼎は、作家としてよりもむしろ教育運動家として精力的に活動を行った。子どもたちにお手本帳の絵から学ぶのではなく、直に自然を見て感じるところを表現することを推奨した。模写ではなく創造性を重視するこの運動は「児童自由画教育運動」と呼ばれ大正自由教育の一大潮流となった。一方、農閑期の副業として農民が手仕事で生み出した工芸品を「農民美術」と名付けて、全国で講習会を行いその生産を奨励した。
周囲から作家活動を嘱望されていた彼が、後半生を美術教育運動に費やしたのは、海外で見た子どもたちの創造性豊かな絵、そして、名もなき農民たちが生み出した美しい工芸品に接して、芸術家として日本の子どもたちや農民たちとともに「創造することの喜び」を広く分かち合いたいとの思いを強くしたからに違いない。「自分が直接感じたものが尊い」と彼は述べているが、作家としても運動家としても、この思いは常に一貫していた。山本鼎は「信念に生きた芸術家」なのだ。
年譜
- 1882年愛知県岡崎市に生まれる。
- 1892年東京・浜松町の木版工房で修業に励む。
- 1898年父が上田に診療所開業。第二の故郷となる。
- 1904年東京美術学校在学中に版画の代表作《漁夫》を発表。
- 1907年石井柏亭らと創作版画雑誌『方寸』発行。
- 1912年フランス留学に旅立つ。
- 1916年帰国の途中、モスクワで農村工芸展示館と児童の絵画展覧会を見て感銘を受ける。
- 1918年日本創作版画協会設立。会長就任。
- 1919年児童自由画教育運動、農民美術運動を開始。
- 1921年東京・自由学園の美術科主任に就任。
- 1922年足立源一郎、梅原龍三郎、小杉放菴らと春陽会設立。
- 1923年日本農民美術研究所設立。
- 1935年帝展参与となる。
- 1936年新文展洋画部審査員。
- 1946年上田市で死去。享年63歳。
作家紹介
信念に生きた芸術家
創作版画家、洋画家、そして、美術教育運動家として日本の近代美術史上に足跡を残した芸術家・山本鼎。彼の姿をひと言で言い表すのが難しいのは、その活躍の場が多岐にわたるからでしょう。しかし、彼の生き方を俯瞰すると一貫したものが見えてきます。それは「リアリズム(実相主義)」または「自分が直接感じたものが尊い」という言葉に表れています。山本鼎は、版画や絵画の制作においても、また、子どもたちや農村民を指導する児童自由画教育運動や農民美術運動時でも、絶えずこのことを念頭に置いていました。これは彼がアーティストとして生涯持ち続けた座右の銘といってもよい考え方でした。多彩な活躍をした彼には「信念に生きた芸術家」という言葉がふさわしいでしょう。
少年時代の下積み
山本鼎は1882(明治15)年に現在の愛知県岡崎市に生まれました。5歳の時、父・一郎が東京で医師免許取得のため森静夫(森鴎外の父)の経営する医院に書生として住み込んでいたため、母・たけと東京・浅草に移住します。母・たけは、森鴎外の友人・原田直次郎の《騎龍観音》のモデルになったと言われています。小学校4年を卒業した鼎は、浜松町にあった桜井虎吉の木版工房で彫版職人としての修行に入ります。木版工房での仕事は、写真の翻刻や解剖図、商品ラベル等の原図を木版に彫り起こすことでした。この木版は木口木版(=西洋木版)と呼ばれ、年輪面を版面とするもので細部まで表現のできる技法として重宝されました。鼎は少年時代にこの複雑で精緻な技術をマスターします。
仕上がった原版で試し刷りを行いスクラップして保管していたようで、そのスクラップ帳を彼は《試刷林》と呼んでいました。この中にはキリンビールのラベルも含まれており、原図を版に起こす高い技術力はその後の創作版画家として活躍する下地となったのです。
一方、18歳になると仕事のかたわらで石井柏亭らが結成していた紫瀾会に入り、絵画の勉強を始めています。複製を旨とする木版職人として生きることに疑問を抱いたのです。
東京美術学校での日々
19歳となった鼎は木版工房での奉公が明け、報知新聞社に入社しますが、翌年1902(明治35)年には東京美術学校を受験し合格。同校西洋画科選科に入学します。西洋画科では黒田清輝、長原孝太郎、岩村透らに指導を受けました。《蚊帳》と《ナース》はこの時期の作品で、いずれも黒田がフランスで学んだ外光派の画風が、その指導を通して鼎の作品に影響を及ぼしています。
その一方、鼎は「版芸術の確立」を目指します。1903(明治36)年末から年明けにかけて、鼎は紫瀾会の仲間と一緒に利根川河口の千葉県銚子に旅行します。その時のスケッチを元に制作したのが創作版画の第1号と呼ばれる《漁夫》です。
文芸雑誌『明星』に掲載されたこの作品を、石井柏亭は「友人山本鼎君木口彫刻と絵画の素養とを以て画家的木版を作る。刀は乃ち筆なり」と評価しました。石井鶴三は、鼎が《漁夫》を彫る場面を目撃しており、黒く塗られた版面に刀が走るとすっと光が差し込んだと述懐しています。鶴三の鉛筆デッサン《山本鼎氏木版彫刻》(1904(明治37)年頃)は、その頃の鼎が木版を彫る姿を伝えています。また、北原白秋の詩集『邪宗門』や蒲原有明の詩集『春鳥集』に木口木版の創作版画を寄せるなど、「美術的版画」の制作に努めました。
卒業後
1906(明治39)年、鼎は東京美術学校を卒業します。これと同時に鼎は新進気鋭の画家・創作版画家として踏み出すのですが、そこはまだ24歳の若者。近代漫画の祖・北沢楽天が主筆となっていた有楽社発行の風刺漫画雑誌『東京パック』の漫画記者となり生活費を稼ぎます。1コマ漫画のほか4コマ漫画なども描き、それぞれ美術や世相をユニークな絵と言葉で風刺しています。
《雨やどり 婦人の引力》はこの時期の作品ですが、少ない言葉と絵の力で見る者を笑わせます。鼎の処女画論「現代の滑稽画及び風刺画に就て」では、「風刺画は絵の力で勝負しろ。説明の言葉に頼るな。」と力説していますが、その矜持を感じさせる1枚です。
一方で、創作版画家としての活動も本格的に開始します。美術文芸雑誌《方寸》を発刊するのです。山本鼎、石井柏亭、森田恒友の3人で創刊し、後に倉田白羊、小杉未醒、織田一磨など多くの画家が参加し、創作版画の普及と美術評論の発表の場として大きな役割を果たしました。また、20代の若き画家や作家たちが集うサロンである「パンの会」に参加。北原白秋、木下杢太郎など文学者とも交友を深めました。この頃、鼎は《方寸》の誌上で恩師の黒田清輝と対談し、絵を描く時は何よりも「感興から出立しなければならない」と発言していますが、これは後に語る「リアリズムの精神」や「自分が直接感じたものが尊い」という言葉に通じる芸術観で、鼎は早くからこうした信念を持ち合わせていたことが伺えます。
フランス留学時代
《方寸》同人であった石井柏亭の妹・みつとの結婚を断られた鼎は、29歳の夏、フランスへ旅立ちます。「例の事件で大打撃を受けると共に、自暴自棄の情が荒れ狂ったが(中略)丁度天与の如き『洋行』という機会に直ちに乗っちまった」と、フランス留学の心情を両親に書き送ったところからも、失恋の痛手が留学を後押ししたことが容易に想像できます。しかし、この留学こそが、鼎の画家人生に後々まで大きな影響を及ぼします。鼎の留学は1912(明治45)年から1916(大正5)年までの4年余りにわたりますが、この間、エコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)で版画を学び、ブルターニュ地方、ヴェトイユ、オーベルシュールオワーズ、リヨンなどフランス国内のほか、イギリス、イタリアなども訪問し制作と見聞を広めました。この時期の作品はセザンヌやルノワールなど印象派の画家たちの影響を受けながらも、鼎自身が「リアリズム」と称した清新な画風の作品を生み出しました。《自画像》はこの時期の代表的な油彩画の作品です。
また、創作版画も《デッキの一隅》《ブルターニュの小湾》など、色彩豊かな秀作が生み出されました。
水彩画やスケッチも多数残しています。水彩画の小品《日曜の遊び 下図》はその中でも異質で、日本にいる14歳年下の従弟・村山槐多のために描き送ったものと考えられます。留学の発端は失恋を癒すためでしたが、数多くの芸術に触れる中で鼎の心には一つの確信が芽生えてくるのです。
ロシアで目にしたもの
「僕の成績はパトロンや友人に対して申訳のない程のポーブル(poor)だ。でも、たったひとつ自分は留学の間にはっきりした信念をつかむことができた。それは即ちリアリズムの信念だ。これさえあれば自分の生はきっと正しく強く支持される。」――パリを後にした鼎はそう心にかみしめながら帰国の途に就きました。第一次世界大戦がまだ打ち続く1916(大正5)年夏のことです。シベリア経由で帰国しようと考えていた鼎は、ロシアの首都・ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)を経て、モスクワに立ち寄ります。モスクワの在ロシア日本大使館の総領事・平田知夫の元に滞在し、児童創造展覧会と農民美術蒐集館などを見聞しました。この体験がシベリア鉄道に揺られる中で芽吹き、日本の風土に「児童自由画教育運動」と「農民美術運動」として根を下ろすことになります。鼎は「巴里では見られなかった、或いは気がつかなかったものだ」と後に述懐しています。モスクワでは世話になった平田へのお礼を兼ねて制作した油彩画《平田知夫領事肖像》や、窓越しから教会を前景に広大なロシアの大地と空の広がる風景を収めた木版画《モスクワ》など、作品には留学で得た鼎らしいスタイルが遺憾なく発揮されています。
児童自由画教育運動
帰国した鼎は、東京と信州・神川村(現・上田市)を拠点に活動を再開します。滞欧期の作品を発表するかたわら、日本美術院に参加。同人に推挙されたほか、日本創作版画協会の創立に参加し会長に就任します。また春陽会の設立にも当初から参加しました。《トマト》は日本美術院同人として出品した作品であり、滞欧期の実験的作風から進化を遂げ、実直さや実在感が感じられます。
一方で、両親の実家のあった神川村では、地元の青年・金井正や山越脩蔵らが鼎の話に熱心に耳を傾けました。話の内容はロシアの子どもたちが描いた創造性豊かな絵を見聞したときの感動、そしてそれとは真逆の日本の図画教育は改革が必要だというものでした。彼らの計らいにより鼎は神川小学校で教師たちを前に、子どもたちにお手本を模写させる臨画教育をやめ、自由に自然を描かせる「自由画」教育について演説を行いました。それから4か月後の1919(大正8)年4月末、神川小学校で第1回児童自由画展覧会が開かれました。お手本を正確に模写することを評価するのではなく、子どもたちの実感で描いた絵を評価するという試みは大きな反響を呼び、その後、全国各地で「児童自由画展覧会」と銘打った展覧会が開かれるようになります。《児童自由画展覧会趣意書》は、神川村で初めて展覧会を開催する折に配布されたもの。児童らの絵は1万点近く応募があり、約1,000点が入選しました。
《第1回児童自由画展覧会入選作品》は、この展覧会で入選した作品の一つです。現在の私たちにはなんの変哲もない農家を描いた絵ですが、当時の臨画教育に慣らされた人々にとっては、自分の感じたままに描くこと自体を評価する鼎の考え方は大変革新的なものでした。これに対し、自由画教育は当時から「写生すれば自由画なのか」と誤解を受けました。しかし、鼎は自由画教育とは「表現の精神」を説くものであると注意しています。「模造よりは創造を勧める」ことが自由画の要点なのです。運動が始まって間もなく、鼎は羽仁吉一・もと子夫妻の創立した自由学園の美術科主任となり、子どもたちに自由画教育の実践を行いました。また、子どもでも扱いやすい画材ができないかと考えていた櫻クレイヨン商会(現・株式会社サクラクレパス)の手がけた「クレパス」の開発にも協力し運動の普及に努めました。
農民美術
児童自由画教育運動をスタートさせた鼎は、1919(大正8)年の暮れに神川小学校の一室を借りて「農民美術練習所」を開所します。モスクワで訪れた農民美術蒐集館のロシア趣味豊かな手工芸品(=農民工芸・農民美術)をヒントに、日本でも農村生活を美術的趣味で満たし、経済的にも副業として根付かせようと考えたのです。《農民美術建業之趣意書》は、この時、神川村の人々に農民美術制作の意義や支援を呼びかけたもの。最初の講習会はわずか4人の受講生により始まりました。農閑期に行われたこの講習は、男性は主に木彫を、女性は主に刺繍や染織などを行うもので、山本鼎のほか、倉田白羊、小杉放菴、吉田白嶺、山崎省三、村山桂次など鼎と親交のあった画家や彫刻家が講師を務めています。
農民美術にとってデザインは最も重要な要素として早くから意識され、講師たちはそれぞれが図案の発案を行ったほか、講習会では受講していた農村民たちに自然の草花使って構成の学習を行い、クッションやテーブル掛け、木箱や鉢などのデザインの発案を行っています。《農民美術デザイン画》は、農民美術のデザイン開発を盛んに行っていたことを物語っています。1922(大正11)年に鼎は、神川村に日本農民美術研究所を設立し、1924(大正13)年からは全国各地に講師を派遣して農民美術講習会を行い、各地の特色を反映した様々な農民美術の生産を指導しています。
与謝野晶子はこうした鼎の奔走する姿を「余りに多方面にお働きになるので、それがあの方の芸術の妨げになりはしないかと案ずるのですが」と心配していますが、その通り創作版画家としての山本鼎は1920(大正9)年に発表した木版画《ブルトンヌ》以降、版画の制作をほぼやめてしまいます。農民美術運動が盛んになり、全国に広がるにつれて、制作の時間が限られてきたのです。
再び画家として生きる
農民美術運動は金井正などの支援や、農商務省や県からの補助金、鼎自身による金策、篤志家からの寄附など、様々な収入によって継続されましたが、開始から10年余りが経過した1930(昭和5)年、鼎は運動によって生じた多額の負債を整理するため農民美術研究所の所長を辞任し、東京に引き上げます。この時、彼は両親あての手紙にこう記しました。「私に与えられた残る生涯に対して如何に画策すべきか――躊躇の要なし。私は再び作家(美術の)生活に復帰することです。」以後、鼎は各地に取材し作品制作に没頭するかたわら、帝展参与や新文展審査員などを歴任、洋画家として制作活動に没頭していきました。《独鈷山麓秋意》や《瀬戸内》は、こうした洋画家としての山本鼎の円熟味を感じさせる作品です。
この時期の鼎の信念を代表する言葉があります。1928(昭和3)年発行の『学校美術』に掲載された「血気の仕事」というインタビュー記事の一節です。これは、現在でも山本鼎の考え方を端的に示したものとして知られています。
「自分が直接感じたものが尊い。そこから種々の力(仕事)が生まれて来るものでなければならない。」
山本鼎は1946(昭和21)年に亡くなりますが、版画家としてだけでなく、美術教育の先導者としてもその名を後世に残すこととなりました。それは誰かの模倣ではなく、自分の感銘を表現することこそが、人間にだけ与えられた喜びであり幸福であることを、子どもや教師たち、そして、全国各地の農村の人々の中に分け入って説き続け実践したからでしょう。
作品紹介
作品をクリックすると詳細を表示します。
《蚊帳》
1905(明治38)年 油彩・カンヴァス
68.0×105.5cm 上田市立美術館
東京美術学校在学中の作品。モデルは山本鼎の母・たけの妹・ヒサ。蚊帳という存在感を表現しにくい対象を選び、差し込むほのかな光を的確な空間把握とともに描き、美術学校での勉強の成果が発揮されている。
《ナース》
1906(明治39)年 油彩・板
32.8×23.8cm 上田市立美術館
画面左から差し込む光に人物の表情が浮かび上がる。背景や人物の構図は、東京美術学校で師事した黒田清輝作《祈祷》を思わせる。モデルは実家の山本医院の看護師か。この年の4月、鼎は美術学校を首席で卒業した。
《自画像》
1915(大正4)年 油彩・カンヴァス
80.0×58.7cm 上田市立美術館
滞仏作。留学中はセザンヌ、ルノワール等、印象派の画家たちの作品を実見し、その描画法をつぶさに観察している。立体の把握のため「面による構成」「筆触」「色調」がポイントであると述べたが、その実作のひとつ。
《平田知夫領事肖像》
1916(大正5)年 油彩・カンヴァス
91.0×72.7cm 上田市立美術館
ロシア革命前夜の在ロシア・モスクワ大使館総領事。鼎は欧州からの帰途、モスクワで4か月ほどを平田のもとで過ごした。その折に描いたもの。36歳の若き眼差しは外交官として奉職する誇りを感じさせる。
《トマト》
1918(大正7)年 油彩・板
23.5×32.8cm 上田市立美術館
第5回日本美術院展出品作。皿の上に置かれたトマトの瑞々しい肌合いが、勢いのあるタッチで描かれている。鼎は自己の実感を「実相(=リアール)」と呼んで制作上の指針としたが、その姿勢はこうした小品にも表れている。
《独鈷山麓秋意》
1926(昭和元)年 油彩・カンヴァス
38.0×45.5cm 上田市立美術館
独鈷山(とっこさん)は、別所温泉を擁する塩田平の南に聳え立つ象徴的な山並みである。秋の午後、西日に照らされた水田のはぜ掛けの稲や、背後の山々が明暗の深い対比を見せている。
《瀬戸内》
1935(昭和10)年 油彩・カンヴァス
65.3×80.0cm 上田市立美術館
波の穏やかな瀬戸内海を、帆船が陽光に照らされながらゆっくりと進む。遠くの島影や海原の光の反射が空気の質感を感じさせ画面に奥行きを与えている。東京美術学校時代や留学期の作品とも異なる円熟味の増した作品。
『試刷林 第参号』
1894(明治27)年 木版・紙(冊子)
23.5×15.5cm 上田市立美術館
鼎は少年時代、東京・浜松町の木版工房で彫版職人として修行に励んだ。その折の試し刷りをスクラップ帳にしたもの。解剖図や肖像写真、商品や企業ロゴなどを手掛けたようで、その技術は創作版画に生かされた。
《漁夫》(後刷り)
1988(昭和63)年 木版・紙
16.0×10.7cm 上田市立美術館
「自画」「自刻」「自摺」を要件とする創作版画の記念碑的作品。うねるような刀跡が港を見つめる漁師の半纏や背後の景色に独特の効果を与えている。10年に及ぶ彫版職人としての技術に裏打ちされた鼎の美意識が垣間見える。
『方寸』第1巻第1号~第5巻第3号
1907-1911(明治40-44)年 紙(冊子)
上田市立美術館
『方寸』は、1907年5月、山本鼎・石井柏亭・森田恒友の3人が創刊。創作版画と美術評論の発表の場となった同人誌で、版芸術の普及に大きな役割を果たした。後に、倉田白羊、小杉放菴、織田一磨など多くの作家が加わった。
《デッキの一隅》
1912(大正元)年 木版・紙
17.7×17.0cm 上田市立美術館
本作は欧州留学の渡航の船中でのスケッチを元にしたもの。降り注ぐ陽光を刀跡によって可視化する鼎流の見立てが独創的である。甲板から海を眺める女性の後ろ姿もその中に一体化し軽快な作品に仕上がった。
《モスクワ》
1916(大正5)年 木版・紙
34.7×42.6cm 上田市立美術館
1919年開催の第1回日本創作版画協会展出品作。モスクワ滞在は4か月足らずであったが、鼎はロシアでの制作にも余念がなかった。滞欧期の作品の中では最も大判。似た構図の油彩の小品もある。
《ブルターニュの小湾》
1913(大正2)年 木版・紙
14.0×21.3cm 上田市立美術館
フランスに留学した鼎は、小杉放菴とともにブルターニュ地方を旅した。海岸沿いの牧草地で草をはむ牛の姿を主題に、波間を行く帆船の帆がアクセントとなっている。本作の台紙には没年である1946年の本人の回想メモがある。
《ブルトンヌ》
1920(大正9)年 木版・紙
36.9×28.4cm 上田市立美術館
鼎の創作版画の集大成となった作品。民族衣装を着たブルターニュ地方の女性を主題に据え、バックを水平線だけで構成している。下絵段階では背景に帆を張る人物や岬が描かれていたが、それらは全て省略され主題がよりクローズアップされた。
《雨やどり 婦人の引力》
1907(明治40)年 淡彩・墨・和紙
16.0×24.0cm 上田市立美術館
東京美術学校を卒業した1906年、鼎は北沢楽天が主筆の風刺漫画雑誌「東京パック」の漫画記者となる。鼎は主に世相や芸術に関連した機知に富み、時には皮肉を交えた風刺画を描いたが、本作品もそうした着想を作品にしたものだろう。
《日曜の遊び(下図)》
1914(大正3)年 水彩・紙
(左)21.3×15.2cm / (右)22.9×13.2cm 上田市立美術館
鼎の作品の中では異質なもので、これを元にした村山槐多の水彩の大作が岡崎市美術館に存在する。画面左はマネの《草上の昼食》、右側はルノワールの《大水浴》などを想起させる。鼎と槐多の関係が伺える興味深い資料。
『農民美術建業之趣意書』
1919(大正8)年 紙(冊子)
9.2×13.2cm 上田市立美術館
留学から帰国した鼎の後半生は美術教育運動に捧げられた。農民美術運動はそのひとつ。ロシア農民工芸をヒントに、長野県神川村で農民による美術的手工芸品「農民美術」の生産が始まる。昭和初期に生産は全国に広がった。
《農民美術デザイン画(水鳥の平木鉢)》
1923(大正12)年頃 水彩・鉛筆・紙
38.0×57.2㎝ 上田市立美術館
農民美術運動の初期段階では、鼎本人や運動に協力した画家たちのデザイン画が数多く残されており、実際に製品化されたものもある。鼎らが農民美術の生産に従事した農村民にもデザイン教育を行った点は特筆される。
『児童自由画展覧会趣意書』
1919(大正8)年 紙(冊子)
14.0×9.4cm 上田市立美術館
「自由画」とはお手本帳を模写する当時の学校教育を改めるため鼎自身が考案した造語である。児童生徒の感じた実感を描かせることを主張した「児童自由画教育運動」は全国に広がり、現在の美術教育の源流となった。
第1回児童自由画展覧会入選作品
1919(大正8)年 クレヨン・紙
23.7×23.5cm 上田市立美術館
長野県神川村の神川小学校で開催された「第1回児童自由画展覧会」で、鼎の目によって「自由画」として入選した小学校6年生の絵。「正確な写実」ではなく「自分の実感」を評価するという鼎の方針は大きな反響を呼んだ。