審査員
(50音順・敬称略)
岩渕貞哉 (『美術手帖』編集長)
遠藤竜太 (版画家・武蔵野美術大学教授)
木村秀樹 (本展審査委員長・画家・版画家・京都市立芸術大学名誉教授)
倉地比沙支 (版画家・愛知県立芸術大学教授)
甲田洋二 (洋画家・前武蔵野美術大学学長)
木村秀樹
審査委員長
画家・版画家・京都市立芸術大学名誉教授
非常にレベルが高く、版種に偏りの無い、バランスのとれた出品状況である事、それが第7回展の審査を通じて抱いた感想であった。技法の習熟度は言うに及ばず、画質の強さやテーマの設定においても一定の水準を越えた作品が多数を占めていた。凸版,凹版、平版、孔版という基本4版種を活用したオーソドックスな作品に加えて、それ等の併用作品や、デジタル出力の作品、版画領域を越境するような実験的な作品等々も含まれ、現代の版画状況をほぼ正確に映し出しているように感じられた。そのような高品質の作品群から132点の入選作、さらにその中から9点の受賞作品を選び出す事は至難ではあったが、5名の審査員の投票とディスカッションを交互に繰り返し、一同が納得の行く結果に至り着けたと確信している。
今回大賞の栄誉に輝いたのは《目の中の世界‐ザリガニ D》と題された、銅版と孔版を併用した作品である。画面フレームの制限を意に介さず描かれたザリガニのイメージは、僅かなユーモアを醸し出しながらも力強く、おそらく作者の着想が最もホットな状態に保たれたまま、一気に仕上げられたものと想像される。技術的には稚拙な箇所が散見されるものの、イメージへの情熱によってきわどく押さえ込まれており、その力技とも言える制作態度がむしろ審査員の好印象に結びついた。理性的かつ計画的な制作態度を自明とする、通常の版画制作に一石を投じたとも言えるだろう。
準大賞に選ばれた《杢》は一転して、画面全体が静けさと穏やかさに被われた木版画作品である。近づくと絵の表面は、木目状ないしは波紋状に広がる彫り跡にびっしりと被われている事に気付く。おそらく作者の制作動機は、結果としてのイメージに収斂して行く類いのものではなく、彫るという行為そのものを目的化しているように感じられる。その執念と没入の強さにおいて、また現代の美術として、あり得べき制作様態であり、肯定的に評価させて頂いた。
もう1点の準大賞受賞作は《Thoughtography 17-05》と題された、インクジェット出力による作品である。グラフィック・アプリケーションを駆使して、女性像を思わせるイメージを造り出している。断片的なイメージの集積と積層からなるその画面は、ブルーを基調とした叙情に満たされている。デジタルプロセスから無縁である事の方が困難な時代にあって、インクジェット出力を中心とした作品は増え続けているが、その必然性を内的に消化した作品と出会う事もまた、まれではある。そのような状況下にあって、作者独自の工夫をさりげなく感じさせる、完成度の高い作品として好意的に受けとめられた。
サクラクレパス賞、優秀賞の作品も、上記3点に勝るとも劣らない優れた作品群であった。入選作もまた然りである。出品者各位がその独自性を深められ、さらなる高みを目指される事を願うばかりである。
この展覧会は、展覧会名に山本鼎の名を冠した事からも明らかなように、創作版画の継承と育成を大きな目的として運営される公募展である。今更ながらではあるが、創作版画という理念性に孕まれた可能性の大きさと射程距離の長さは、自画自刻自摺の堅持といった教条主義に収まりきれるものではないだろう。オリジナリティの複数同時存在を容認したオリジナル版画規定(1960年)の持つ革命性と併せて、「版画」の可能性を味わいつくす場として、その役割の重要性は増す事はあっても減じる事はないであろう。本展の発展的躍進を祈念しつつ、第7回展の審査報告の結びとしたい。
岩渕貞哉
『美術手帖』編集長
前回に続き2回目の参加となった。審査員のなかでは年齢が低く、版画の専門でもないので、できれば型破りな若手の作品を選べればと思って審査に臨んだ。とはいえ、実際の段では、年齢や経歴などは明かされずに進むことになるのであくまで方針ということになる。
今回大賞となった《目の中の世界‐ザリガニD》は、素朴で力強い、外連味のない表現に目を奪われた。しかも、サイズも大きく、技術力というよりも対象にたいする思い入れと集中力が込められていることが画面から直で伝わってくる迫力があり、そこを評価した。また、その創作への初期衝動と溢れんばかりのエネルギーから、若い作家だろうと勝手に想像していたが、受賞者の松岡惠子は63歳だという。経歴を見ると、5年ほど前に美術大学の通信教育課程の版画コースを履修していた主婦の方だった。いくつからでも学ぶことができるということと、それが作品という成果に現れていることに勇気をもらった気がした。
「人生100年時代」と言われるなか、高校卒業後に美大に通わないでも、いつからでも、また主婦を含め他の職業に就きながらアーティスト活動をおこなうことが普通になってくるかもしれないと感じた(今回の受賞者の職業を見ると「版画家・美術家」と書いている人が少なく教員や自営業、主婦などが多かったのは、版画というメディアならではなのだろうか)。そして、それは山本鼎が提唱した「創作版画」や「農民美術」の精神が現代に受け継がれているのかもしれない。
大賞のほかには、写真ともいえない念写のようなイメージを生み出した神田和也、ドローイングの感覚を引き写した木下珠奈、ペインタリーな質感を滲ませる安河内玲菜といった、版画との隣接ジャンルとのハイブリッド的な感覚を併せもった作品に惹かれるものが多かった。
遠藤竜太
版画家・武蔵野美術大学教授
山本鼎が導いた創作版画運動は、自画自刻自摺という理念のもとに「版画」と呼ばれる版の芸術を生み出しました。それが現代には、様々なメディアとの親和性を発揮し、斬新で独自な表現・先端的な表現を獲得することで、広く現代美術として認められるようになったのです。
しかし、一方で技巧的な力量が重要な要素となるため、往々にして技術の向上に腐心をし、表現の本質から離れてしまうことも少なくありません。版画が、形式的な方法論や技術論によって自らを束縛してしまうことによって、途端に矮小化してしまいかねない要因がそこに潜んでいるのです。
このことを踏まえ、版画の近代化を目指した自画自刻自摺という理念は、いかに純粋な個人の表現として成立させるかという、いわば極めて美術の本質的な目標から生じているものであり、単なる制作方法における自己完結の奨励では無いということをしっかりと理解しておかなければならないのです。
私は、山本鼎の名を冠したこのコンクールの審査に臨むにあたり、先ずは内省を込めて以上のようなことを自己確認しました。
実際に審査に加わってみて感心したことは、入選作品の完成度が予想以上に高かったことです。その中から授賞作を選ぶ過程で、私がどのような観点で審査したのかを敢えて言葉にするなら、「独自性」と「同時代性」ということになるでしょうか。それは、流行という意味ではなく、同時代を生きる者として共感し、驚きを感じるかということです。
大賞の松岡惠子さんの作品は、大胆な構図と力強さが際立っていました。荒削りな銅版画技法とザリガニの質感とが重なる説得力のあるマチエールが魅力となっています。意図なのかは判らないですが、形態が誇張されて生じる劇画的な表現にも惹かれました。
準大賞の2点は対照的技法でありながら、スキルの高さが秀でた作品です。棚橋荘七さんの木版画は、精緻に刻まれた線によって立ち現れるイメージが、木目のようなでもあり宇宙のようでもある懐の深い表現で趣がありました。神田和也さんの作品は、デジタル版画が新時代に入ったことを印象づける秀作です。レイヤーという版画的構造を意識しつつ、デジタル固有の表現を行っていることが高く評価されました。
サクラクレパス賞の木下珠奈さんの作品は、2つの図像の関連性を想像する面白さと、魅力的なピンク色による表現が印象的です。優秀賞の館泰子さんの作品は、単純な図形と色彩で明快でありながら、どこか漂う良い意味での緩さが新鮮でした。片岡愛貴さんの作品では、銅版画の技術に目を奪われますが、それ以上に力強く表面的でない確固たる造形力を感じます。黒石美奈子さんの銅版画からは、作者の感情が堆積しているような思いの強さが伝わってきます。石橋佑一郎さんの作品は、卓越した技術と画面構成力、制御された色彩による版画特有の空間表現が評価されました。安河内玲菜さんの作品は、人や建物の形や光の扱い方が独特で、必要最小限のイメージが豊かに増幅される表現にはオリジナリティと現代性があります。
言うまでもありませんが、公募展では審査結果によって審査員の見識もまた評価される対象となるのです。今回の私たちの判断がどうだったのか、その批評に大変興味ありますが、少なくともこの展覧会が出品者の方々の今後の励みになればと願うばかりです。
倉地比沙支
版画家・愛知県立芸術大学教授
3年ぶりの上田である。前回の審査で訪問した1月に比べ、11月だったせいか、雪はない。平坦な稜線が続く名古屋の遠景と比較して、起伏に富み延々と続く山並みの稜線は独特である。ソリッドな空気感と審査に向かう程よい緊張感が交錯し、上田は私を迎えてくれた。
平成29年11月25日・26日の2日間にわたり、第7回山本鼎版画大賞展の審査が行われた。応募総数263点、入選作品数132点、受賞作品数9点が、審査員によって厳正に選定された。前回より応募者数が減少したものの、熟練した版画作品が目につき、技術と版に向き合う真摯な経験値を見ることができた。作品数の減少は、若い人の応募者が少ないことから、時期的な問題や応募方法の再検証など、今後の運営に対しての課題は残る。
版画には様々な技法や材料が存在する。凸凹平孔の一般的な4版種に加え、デジタルプリントやモノタイプなど、作る側の選択肢は多い。作者は自身の表現に合わせて主査選択をし、版画表現に結びつけようとするのだが、技法や材料に入れ込みすぎると主体的な表現を見失う、技巧偏重の落とし穴が待ち受ける。大事なのは「自身の思考と制作から見出した表現の特性を、どう特化させ思考にフィードバックさせ版画表現に結びつけるか」だと思う。言葉にすれば簡単だが、これがなかなかうまくいかない。経験・思考・技術や材料の鍛錬、自己問答など繰り返しながら、作り手による制作の振幅の中で見出すしかないのである。そうした積み重ねが作品の厚みとなって人を魅了する。審査は、こうした作品に込められた情報を読みとる力量を必要とし、同時に同じ版画家としてその力を試される場でもある。
大賞作品《目の中の世界‐ザリガニ D》の松岡惠子さんは、非常に深い腐食とザリガニに対する執拗な興味が、空間を無理強いするような独特な「ひずみ」を生み、良い意味でのぎこちない力強さを生んでいる。てっきり若い人かと思い込んでいたら、応募票を見て年配の方だと知り驚いた。
準大賞作品《Thoughtography 17- 05》の神田和也さんのデジタルプリントの作品は、単にデータをプリントしたのとは違い、様々な工夫が施されているように見受けられる。印画紙の代用として、あるいは何かの再現のためのデジタルプリントではなく、デジタルプリントでしかできない表現にこだわっているように見える。
同じく準大賞作品《杢》の棚橋荘七さんは、木版を木目のように子細な線でオールオーバーに彫り進み、繊細で厚みのある色彩を表出させている。彫っていく抑揚が節目のような模様を生み出し、また彫りながら何かを探っているようにも見える。そして最後まで彫り切ることでしか到達できない特性が存在する。その他の作品については紙面上省かせて頂くが、受賞作品はいずれも甲乙つけ難い力作であり、受賞にふさわしい結果であると自負している。
最後に、審査進行に尽力して下さった関係者の皆様、この場を借りて厚くお礼申し上げます。
甲田洋二
洋画家・前武蔵野美術大学学長
晩秋の信州上田での作品審査は、千曲川を取り巻く上田盆地が、生み出す朝の冷気が、審査に向けて程よい緊張感を与えてくれる。二六〇点を越す、応募作品に接した最初の印象としては、この「コンペ」のレベルを保ちつつも突出した作品が少ないのではないかと感じました。全体にバランスは、とれているけれど、独創性に乏しいのではないかと。しかし、版画の領域は、画面に直接、描く所謂「絵画」と異なり、なんらかの「版」が、介在する表現方法が、主であります。それぞれの「版」により、技法的共通性が生じて来ます。そうゆうシステムを乗り越えて、作者の独自で、新鮮な意図を、最終段階まで維持し発展させることは、至難なことでありましょう。そうゆう意味に於いて、平面作家よりも、強靭なる個性を要求されるのではないでしょうか。そのような思考経過の後、作品に接して行く中で、第一印象とは、異なる展開が見えて来ました。結果として今回ならではの作品にも出逢え、充実した審査の時間を、共有することが出来ました。結果として、応募作品の約半数、一三二点の入選という、かなりの厳選となりました。この結果は、意図的なものではなく、審査員全員の合議による自然な流れによるものでした。審査員各自の付箋投票により、支持多数者九名が優秀作品となり、同じ選考方法と討論により、大賞以下が選考されました。
大賞の《目の中の世界‐ザリガニD》は、審査当初から、作品としての存在感が強く注目しておりました。「銅版」としては、かなりの大作であり、版作りをする上で注入したであろう多量のエネルギーに感動します。作品意図は「みる」という根源的な課題に真正面から挑戦し対決し、最後まで、ぶれずにその姿勢を貫きとうした結果に対して素直に評価できると同時に今後の更らなる展開を期待します。準大賞《杢》は、題名が語るように、木に対し?人ともいえるような無償の行為によって創り出す、無私の世界に向かっているのでしょうか。それ故に、一見するだけでは、通じないけれど徐々に、密やかに、底光りするような魅力が、画面に展開していることを感じとります。漠然とした自然観ではなく、ご本人が確たる対象を掴み取り、その中に深く入り込んでの展開に、充分な評価をしたいと思います。神田さんの準大賞作品は、現在、一般化した「デジタル」の技法を使用した作品でした。従来の版作りとは、異なりスピード感があり、版作りというより、デジタル処理による画面は、爽快感に益れています。優秀賞の石橋さんの《ソラノネ》に於ける諧謔さをも含んだ「日本」。安河内さんの「コンビニ」が、便利さ故に、社会化され、日常化され、風景化されている状態に対して、個としての関わりも風景化されてしまう現状の孤独感は、深い。評者としては、もっと記すべき作家が居りましたが、字数の関係で、今回の筆を、これまでと致します。