岩淵貞哉 | (『美術手帖』編集長) |
木村秀樹 | (画家・版画家・京都市立芸術大学名誉教授) |
倉地比沙支 | (版画家・愛知県立芸術大学教授) |
藏屋美香 | (東京国立近代美術館美術課長) |
甲田洋二 | (洋画家・武蔵野美術大学学長) |
版画王国、あるいは版画先進国とも称され、国際的にも評価が高い我が国の版画文化ではあるが、その1つの証として、版画作品を対象とした公募展が、各地で、引きも切らず開催されているという状況がある。各版画公募展はそれぞれの独自色を出すべく工夫を凝らし、存立を賭けて競い合っているというのが実情ではないだろうか?このたび第6回目を迎える山本鼎版画大賞展は、創作版画の創始者であり、また自由画運動の提唱者でもある山本鼎の精神を現代に引き継ぐべく創設され、継続されてきた事は言うまでもない。
一般に公募展には出品規定というものが存在する。とりわけ版画に特化した公募展では、その物理的形状に関する規定以上に、作品の種別という項目が重要となる。その展覧会はどのような作品をもって版画とするのか?すなわち版画の定義がそこには示されているからである。それは、その展覧会のアイデンティティを明示する項目と言っても過言ではない。我が山本鼎版画大賞展の出品規定にはこうある。「版による表現を行ったもの」。山本鼎翁のおおらかさを端的に反映した文言と言うべきか、極めて大枠で緩やかな括りである。
後発領域の宿命かも知れないが、版画は常に自らの再定義を求められてきた領域でもある。印刷技術と不即不離の関係にある版画は、とりわけテクノロジーの進化に敏感たらざるを得ないという事情も影響しているかもしれない。版画の本体そのものが、その行方を求めて、ある時は本質主義的になり、あるいは逆に拡散主義的に走るといった、一種の迷走状況が指摘できるとすれば、「版による表現を行ったもの」という緩やかで且つ大らかな版画の定義は、まことに味わい深いものがある。
さて、そのような感慨を抱きつつ、第6回山本鼎版画大賞展の審査にあたらせて頂き、大賞、村上早氏作「息もできない」を含む、9点の受賞作と130点の入選作を決定させて頂いた。出品作全体から受けた印象を述べさせて頂くと、堅実、安定感、高い技術的水準、といった言葉が浮かんでくる。回を重ねてきた、この展覧会の歴史が、必然的に獲得した、出品作品全体のレベルの高さという事であろう。したがって、審査は困難を伴うものではあったが、同時に、新鮮な作品に触れる事が出来る、喜びに充ちたものでもあった。個々の作品に対するコメントは、紙面の関係上省かせて頂くが、出品者各位の制作が、益々進化し豊かな収穫を生み出す事を願わずにはいられない。
最後に、山本鼎の作品「漁夫」を源流とする創作版画は、絵画と印刷技術の幸せな合体であったと同時に、浮世絵(複製性と分業制作としての)との決別でもあった事を想起しつつ。
この「山本鼎版画大賞展」のような、版画表現に特化した作品の審査は初めての経験だった。そのこともあって審査にあたって、「版画=版による表現を行ったもの」とは何かと審査員の方々にうかがってみたところ、根本は「複製性」であるという見解に至る。ということは、主な4つの版種(凸版、凹版、平版、孔版)だけでなく、デジタルイメージによるプリントや写真なども含まれることになり、かなり広い領域を扱えることになる。
審査にあたっては、他の審査員に比べて版画技法に深く精通しているわけではない自分も、この「複数性」を手掛かりに作品を見ていくことができるかもしれないと考えた。
今回の受賞作について、大賞の村上早《息もできない》は、審査の際にも話題に上った下地の作り方に膨大な手間をかけていて、そこで白く浮かび上ってがってくる脚部、松葉杖と背景の濃淡のニュアンスが、黒くしっかりした輪郭線や影を引き立たせて、画面にコクを与えている。そのことで、大きな画面にシンプルなイメージにもかかわらず、その構図の面白さと合わせて、視線を作品に長く留まらせることになり、作家が作品に込めた世界観や思いと鑑賞者の想像力を出会わせることに成功している。そこが評価の大きなポイントとなった。
ほかに印象に残ったのは、優秀賞の椿一朗喜昭《蓄積の廃景》の様々な地域や時代の文化・生活を濃縮して叩き込んだ、版の持つ軽やかさへの挑戦のようなその存在感。そして、信國由佳理の《Proof of my life》は、日々の生活の中で廃棄するゴミこそが逆説的に自らの存在を証立てるであるというテーマを、半透明のビニール袋の質感や繊細な線画によって、不快感を感じさせずにすっと見るものを納得させる力があった。 また、準大賞の伊藤学美や優秀賞の加藤昭次、野嶋革など、他の審査員の方から技法的な見どころを聞くことで、作品の面白さを発見するという体験は新鮮だった。 結果的には、写真やデジタルといった複数性をもとにして版画を拡張するようなものではなく、これまで培われてきた版画技術を駆使した作品に見るべきものが多く、「創作版画」を唱えた山本鼎を冠した賞にふさわしいものとなった。
デジタル技術やネットワークの進展によって、版画はかつてのように先頭を切って「複数性」の可能性を担う表現メディアではないかもしれない。しかし、版画の原理に埋め込まれた「複数性」は、美術の流通や受容のシステム自体を揺るがせるような潜在性を秘めているはずだ。「版画」という概念を、原理に立ち返って今一度見つめ直すことで、版画というジャンル自体を突き崩すような新たな表現が生まれてくることを期待したい。
撮影:森本菜穂子 これまでいくつか審査の経験がありますが、版画のみ、というのは今回が初めてでした。たとえば絵画の審査の場合、必ず応募者の間に明らかな技術の差というものがあります。つまり、最初の何割かを選り分けることに大きな苦労はないのです。しかし、一定の技術的訓練を要する版画の場合、参入障壁が高いのでしょう、応募者間に極端な力の差が見られないのが驚きでした。したがって、ある水準以上の技術は当然のものと考え、その先の内容によって選考を進める、難易度の高い審査となりました。逆に、技法への思いが大きいだけに、この技法にはこうした主題がふさわしいとの先入見があるのか、複数作家が同一技法で同一主題を取り上げているケースが見られました。こんにち美術ではさまざまなメディアが使われています。他メディアも含めた広い文脈の中に置き直し、もう一度扱うべき主題を考えてみることも、この分野で制作を進めるにあたり、必要な作業ではないかと感じました。
大賞の村上早さん《息もできない》は、落下する犬と女性、そこに重なる松葉杖と少女の脚、という主題が新鮮でした。デッサンの確かさ、女性と犬が地面の黒い部分を含め一体となって四角形を成すという形の作り方など、造形的なうまさが、主題のおもしろさにきちんと拮抗しています。この黒い部分一つ取っても、女性と犬の影なのか、女性の髪なのか、血なのか、いくつもの見え方をし、主題の読み取りを複雑化させます。少女の脚と松葉杖に施された技法的工夫が、他の審査員の方々のご指摘によってわかり、一見単純に見える画面の作りの入念さに納得するなど、審査をしていて勉強になりました。
準大賞の伊藤学美さん《pine♯12》は、遠目には写真のようで、近付くとたくさんの手の跡が見えてきます。ふだん意識しない、世界をモノクロに変換することの異様さを見る者に突き付けます。鳥居本顕史さん《both sides, now 02》は、縦横に折った紙を広げてできた折れ跡と、その紙を支持体に留めるためのテープとを、ともにシルクスクリーンで刷ったもの。位相の異なるものがシルクスクリーンによって同一次元に圧縮されています。
サクラクレパス賞の中嶋恵子さん《NOTE(1)》は、版画を作る過程自体が版画化され、それが美しいグリッドの構図を作っています。グリッドの斬新的な変化は、リズムの進行、つまり時間の流れを画面に呼び込みます。優秀賞の加藤昭次さん《フラクタルな微風の中で》は、木版に期待される「素朴さ」や「味わい」を裏切る、一見シルクスクリーンにも見える作りで、審査員の評価を集めました。玉分昭光さん《ナリタチ》は、背後に大きな世界観があると思われ、他の作品とのつながりの中でその広がり具合を確認したいと感じました。椿一朗喜昭さん《蓄積の廃景》は、古文書のようなまがまがしさ。技法、主題とも暴れ具合では今回随一でした。信國由佳理さん《Proof of my life》は、昨今版画以外の分野でもしばしば扱われるゴミを描いています。それだけに、逆に版画でなければ表現できない必然性とは何かが問われます。野嶋革さん《After the beauty asleep 08》は、高い技術力に支えられた画面です。光と影を丁寧に捉える喜びを、今後も深めて行かれることと思います。
日本の中央を源流とし、長野から新潟へと続く大動脈である千曲川。関係者の話によれば、200メートルは優にある対岸までの遊泳を競い合い、冬には満々とした水面も白く染まる、この川は上田の象徴的存在である。その中心部に、白々とした山々が遥か遠方まで連なり、円形の中庭を取り囲むような建物群の傍らに、開館間もない上田市立美術館が佇んでいる。第6回山本鼎版画大賞展の審査は、雪がちらつく静寂の中で行われた。創作版画運動の師、山本鼎の意志を受け継ぎ、工夫をこらし制作された368点の版画作品が応募された。1点1点をじっくり見入ると、作品の前で対峙した作り手の様々な息遣いと行為の厚みが見えてくる。ただ単に置かれた一点の作品ではあるが、作品に何とか印そうとした痕跡が、版や表情となって我々に語り掛けてくる。しっかり読みとろうと凝視するのだが、全てを読み取れるわけではない。油彩や彫刻作品のように直接絵筆や手を使って制作するダイレクトな制作方法は、微妙なニュアンスや手アカのような「ナマ」な情報が残り、鑑賞者は、感覚の機微にのせてそれらを追体験し、作者との共有感を堪能する。一方で、版という媒体を通す版画表現は、間接性や複数性、摺刷道具や紙から起因する平滑性などの特性によって、ダイレクトな機微が薄まる。しかし、この希薄化した機微の中に、「手間暇かけた迂回の作法」「いい意味での軽さ」「恣意と偶然の間にある無責任さ」など、版画家独特の言葉となって言い表されているように、版画表現の特性へと繋がって行く。このような版の特性を踏まえつつ、作品を節別し順位化することは、当たり前であるが非常に骨の折れる作業である。
大賞を受賞された村上早さんの作品「息もできない」は、リフトグランドによって腐蝕されたザックリとした太い刻線を、何度も消しながら新たなイメージを描き加えていく。深く刻まれた刻線を消すのは容易ではない。なぜなら物理的に作られた銅板の表面の凹凸を何度もヤスリで削り、平滑にする事によって、やっと白くなるのである。「息もできない」の意味に込められた閉塞感や落ちて行くのか浮いているのかわからないような浮遊感と、それらに反比例するかのように重層的な消す行為が、シンプルな刻線によって繋ぎ止められて、不安定なバランス観を創り出している。準大賞の鳥居本顕史さんの作品「both sides, now 02」は、画像としてのビニールシートと実物の粘着テープ、脚色する要素を省いた単的な画面構造、原寸大と言う実態観と物質としてのテープ、視覚と存在の狭間で見る側が交錯するような作品である。その他の作品については紙面上省かせて頂くが、受賞作品は、いずれも甲乙つけ難い力作であり、受賞にふさわしい結果であると自負している。
審査進行に尽力して下さった関係者の皆様、この場を借りて厚くお礼申し上げます。
前日の降雪により、朝の光に映える上田盆地の白銀の世界は、神々しいばかりの美しさであった。この偶然の幸運により心身ともかなり浄化された気分で審査に入ることが出来た。二日間にわたり全出品作に接してみて総じて一定のレベルを保っていた。従って単なる思い付きだけの作品などはなく、改めて国内における「山本鼎版画大賞展」の認知度の高さを実感した。そんななか入選作品一三九点を選出することが出来た。その作品群から、九点の入賞作品を審査員の合意により決定―各賞への選出に移った。
大賞受賞、村上氏の「息もできない」は、柔軟なる簡潔さともいうべきかそれにより、伸びやかで、強靭なる作品を生みだしている。画面に展開する「動物と人間」が造り出す「村上ワールド」ともいうべき世界は興味をかきたてる。そして、一見、見逃しかねない版作りの努力により、作品自体に厚みと深みを与えている。準大賞伊藤氏の「pine#12」は、高い表現技術を軸にくり広げられる緻密なる画面から発する黒色の神秘的な世界は強く印象にのこる。同じく準大賞、鳥居本氏の「both sides,now 02」は、紙の余白にも意味性を持たせた青色の抽象世界は美しい。数個のタグ状の突起の出現により色彩の美しさのみではなく「現状」に対する作者の鋭い視線の行き先を暗示させる。サクラクレパス賞、中嶋氏の「NOTE(1)」は、版画(木版、リトグラフ)による技術上の制約からの解放を試み、日常に於けるドローイングも含めたメモや記録などが醸し出す「なにげなさ」を表出した。この「カルサ」は貴重だ。優秀賞、五氏の作品も、各、独自な世界を生みだしており好感の持てる秀作と思う。
前段で記したように良質で誠実な作品が多く入選し審査を担当した一人として、正直ホッとしている。しかし、もう一歩踏み込んで見ると、かなり多くの出品者が内省的で、私的世界を展開しているように感じる。現状の社会環境においては、寧ろその展開の方に必然性があると思う。しかし、次なる新たな表現の提示を期待したい(大賞、準大賞の受賞者が偶然にして20代の若者であったことによせて)。
木村審査委員長をはじめ、各審査員の公平なる評価とチームワークにより、気持ちよく冷静に審査出来たことに感謝しつつ...。